2017年7月8日土曜日

さようなら、レン・ハン。



2月、写真家のレンハンが急逝。まだ29歳でした。
http://www.newsweekjapan.jp/sakamaki/2017/02/post-30.php

3ヶ月後、公私ともに彼のパートナーだったHuang Jiaqiが自身のinstagramアカウントに”Goodbye,Ren Hang”と題した英字の文章をポスト。
https://www.instagram.com/p/BT608s4Bp-u/


わたしは英語がほぼできない。つまりほぼ読めない。読めないけど、ぽろぽろとわかる単語を拾って読むとああこれはちゃんと読まなきゃいけないやつだと思い、イングリッシュスピーカーの友人の力を借りつつノートに夜な夜な写し取り、少しずつ一ヶ月かけて翻訳しました。
翻訳したところでHuang Jiaqiのこのポストの日本語訳がメディア上に存在していないっぽいことがわかったので、読みたい人に届けばいいなと思いシェアします。
繰り返し言いますがわたしは翻訳の専門家ではないので間違ってる箇所は全然あると思います。(ご指摘は歓迎します)
なぜできないところを、しかもまあまあ長い文章を訳したんだろうと考えると、自分なりの弔いの作業だったのかなと思いました。

いつも隣にある死の気配を繊細に感じ抗いながら、ボーダーを越えようとチャレンジし続け、尚且つPOPであろうとする彼の姿勢とその作品に、ものをつくる人間としての勇気をもらったことを覚えています。あらためてご冥福をお祈りします。どうか彼がいま安らかな場所にいますように。












※7月11日 追記&本文訂正 「kuai」について

アップ時の訳文では

「ぼくたちはよくチャーハンとキュウリと5枚のkuai(注釈:中国の薄切りの肉や魚のことらしい)が入った弁当で我慢しなければいけなかった」
 

と表記しましたが
中国に留学経験がある方で本文を読んでくださった方から、訳文中の「kuai」の意味を教えていただくメールをいただきました。

原文を読んだ私の理解だと
「5元(1元が16日本円だとして約80円という激安)の、
キュウリのチャーハン弁当」となると思われます。
"fried rice with a cucumber"は「キュウリのチャーハン」かな、と私は思います。
中国では、キュウリをよく炒め物に使ったり、加熱して食べるので。
「チャーハンの上に生のキュウリがのっている弁当」の可能性は、弁当にナマモノを使わない中国の食習慣からすると、考えづらいとおもいました。

 

とご説明いただき、これに習い本文を訂正しました。
「kuai」に関しては調べてもぼんやりとした情報しか出てこなかったのでめっちゃありがたかった。。
メールをくださったIさん、ありがとうございました。
 




以下訳文です。





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“Goodbye,Ren Hang.”


8年前、ぼくはまだ17歳の高校生だった。
当時ぼくたちはそれぞれ違う街に住んでいて、電話かインターネットで話すことしかできなかった。でも、たとえ会うことが
ほとんど不可能なのだとしてもぼくたちはぼくたちの愛が熱を帯びていることを知っていたし、ずっと一緒に生きていくのだという夢に必死でしがみついていた。
きみと暮らすために、家出をして大学の入学試験を放棄し北京にやってきたとき、それはぼくの人生でいちばん重大な決断だった。


当時、北京はまだ混み合ってなくて車も人も今ほどなかった。けれどぼくたちは情熱的な生活をすることだけはできた。5~6人の他人と同じ家で暮らし、一日一日食べていくのに必死で、ぼくたちはよく5元(注釈:日本円で約80円)のキュウリチャーハン弁当で我慢しなければいけなかった。
その年、きみは22歳でまだ人々のたくさんの興味を引くことはなく、きみの頭の中には彼らが貼ってくるレッテルもなかったけれど、きみの仕事は確実に成熟しはじめていた。きみに最も近しい人間として、ぼくはきみの作品のいちばん最初のオーディエンスだった。ぼくたちは誰かに対して何かをする義務なんてなかったけど、お互いのためにお互いのそばにいたんだ。


ゆっくりと、きみの作品は評価されはじめていた。
人々はきみの作品の価値をだんだんと認めはじめていた、ぼくがそうだったようにね。
そして注目が集まるにつれてぼくたちの暮らしは楽になっていった。
ぼくはきみの成功が本当に嬉しかった。でもそれと同時に気付いたのは、美術的な良し悪しを判断される世界に身を置き、それらの評価がぼくたちの生活に影響を及ぼしはじめていたことだった。


批評や評価をされるその度に、その時々に、その全てがきみを悩ませた。
ぼくはきみのそれがうつ病と呼ばれるものだと知らなかった。
はじめてきみが泣きながら「この部屋に火をつけてしまいたい」とぼくに伝えてきたとき、ぼくたちは一緒に死ぬことだってできた。
でもぼくが知っていた全ては、このふたつの手できみを抱きしめ、引き寄せ、きみのこころが鎮まるのを待つことだった。
ぼくは人生におけるはじめての恋人という大切な関係を守りたかったし、ぼくたちは強くなる必要があって、そうすれば全部が大丈夫になると思っていた。
でも、ゆっくりと、こういう出来事は増えはじめていた。
そのとき、ぼくはきみがうつ病を患っていることに気付いた。
たまに外でも(それは道ばただったり地下鉄だったりしたけど)きみは自分自身のコントロールができなくなって、何かしらの極端な行動に走った。
毎回、ぼくはきみを止めるためのベストを尽くし、きみを落ちつかせようとした。それはきみが、ぼくや他の誰かを傷つたくないと望んでいることを心から分かっていたから。
あなたの心の中には愛があると同時に厄介な子供も棲んでいて、その子供は誰かに世話をしてもらうことを必要としていた。その子は人生を愛していたけど、愛する技術に欠けていたのだった。


何年かが過ぎ、ぼくたちは共に成長していた。自分の人生に関するいくつかのことを諦めたけど、きみの制作の手伝い、そして自分の人生をより良いものにするために、ぼくはきみのそばにいることを選んだ。
ぼくは、決してぼくのことを見捨てることのないきみのまなざしを求めていた。
なぜなら、どんなに辛くあがいても、どんなに苦しく耐えられない状況でも、一緒にいさえすればそこにはまだ希望と光があることをぼくは知っていたから。
そして、きみがぼくに心を開いてくれたとても多くの時間のなかで、きみも同じ事に気付きはじめていた。
もしも、ぼくたちの人生と愛を共にやり直すことができたなら、きみを救う方法をぼくたちは学ぶ必要がある。
少しずつ、きみの病は激しさを失いつつあった。
最後の2年間はそれまでよりもずっと良い思い出がたくさんあるけど、それでも、きみは胸の中に捉えどころのない気持ちをまだ感じていたのだろうね。


ぼくたちの信頼ときみの過酷な制作は、様々な困難に直面する勇気をぼくにくれたように思う。そのことを考えるたびに、ぼくは心にあたたかさを感じるよ。
17歳のぼくにとっていちばん大切だったものはもう永遠にかわらない----それはきみのことを、ぼくたちの愛を、守ること。


それでもあの日はやってきてしまった。
ぼくが眼科に行っていたなんでもないようなあの日、きみは最後の決断をしていた。
正直に言うとぼくはあの日のことを何一つも思い出したくないんだけど、それでもあの日以来強制的に想起させられる。
きみのうつ病は瞬間的に毎秒きみを拷問のように苦しめていたけど、その闇がついに訪れてしまったとき、ぼくはきみを守る最後のチャンスを失ってしまった。


ぼくには、きみを敬い、受け入れることしかできなかった。


なぜなら、もはやぼくにはその選択肢しか残されていなかったから。


うつ病は危険な病気ではなく、とても一般的な病だ。うつ病の人々はうわべだけの陽気さや活発さの後ろに隠れることができる。それでもまだ寝ることや食べることと同じように定期的に自殺についてしつこく考え続けているのだ。時には、あなたの持ってる全ての愛を示してもそれは彼らにとってまだ十分ではない。これはお願いだ、誰か彼らの病をできるだけはやく察し、そばに行き、救いを見つけてほしい。医師や精神病学者のもとへ行き診てもらうだけではなく、飲むべき薬についてしっかり知ってほしい。そしてもしあなたがこれらの問題を家族や友人に知ってもらうなら、一緒に頼んでほしいことがある。それは彼らが必要とする支援をうけられるように手伝ってほしい、ということ。


きみは最期、ぼくたちの共通の友達に、ぼくを大事にするように、それに最善を尽くすようにと頼み、任せた。
幸いにも、ぼくたちにはたくさんの友達がいて、彼らはぼくが求めるよりもずっと多くのサポートをしてくれたし、ぼくは彼らがぼくたちにしてくれた全てのことに本当に感謝している。
その誰しもにぼくを助ける義理があったことをぼくは知っていて、どんなにわずかな優しさでさえも、そのどれもが有り難かった。
遠くに住む多くの友人たちは、ぼくがどう折り合いをつけているかあえて聞いてこなかったし、あえて訪ねてくることもしなかったけど、ぼくは理解していた。
彼らはぼくを強く抱きしめ、彼らの人生から離れて行かせないようにし、最悪の結果によるぼくの人生においていちばん過酷な時期を寄り添ってくれた。
ぼくのかかりつけの精神科医は「あなたには生きようとする強さがある」とぼくに言う。それはたぶんその時のぼくにとって最も大きな慰めだった。
そう、ぼくのことはもうこれ以上心配しないで。


過ぎ去って行った日々の中で、ぼくたちが望んだことは二人ができる限り幸せに生きることだった。
「きみはぼくの帰る家で、ぼくはきみのものだよ」と、きみは言っていた。
8年の月日が過ぎて、今のぼくに帰る家は無い。
現在のこの環境で法律はぼくたちを守ってくれないし、ぼくはきみなしでこれから将来の問題に向き合わなければいけない。
ぼくは精神科医の助けを借りて、傷を癒すこと、受け入れることをようやくしはじめた。きっとそれはとても難しくて、すごくゆっくりだけど、ぼくがずっと頼り続けられるのはもう自分自身だけだから-----きみの死に向き合い、乗り越えよう。


17歳できみに出会ってから、ぼくは常に自分が成長しているように装ってきた。
だけど、すべてが終わったいま、ぼくは気が付いた。
ぼくたちはふたりのちいさな子供だったんだ。
ぼくはこれから先ずっと、ただ自分自身を育てていくよ。


さようなら、ぼくの恋人。


さようなら、レン・ハン。


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いくつかのことについて説明します。


ここ数日間でレン・ハンのweiboのアカウントのいちばん最新のポストにたくさんの友人が質問をくれました。
ぼくたちふたりを気にかけてくれたことに感謝します。


今現在、レン・ハンの生前の仕事は法的相続人である彼の肉親者の管理権限内にあります。2017年3月10日、レン・ハンの仕事に関する全ての声明を停止する手伝いを彼の法的相続人に行いました。
あのとき以来、レン・ハンのアカウントやwebサイトのことにおいてぼくは何も知らないし関与もしていません。
今後、レン・ハンのアカウントにおけるいかなるポストにもぼくが関わっていることはありません。


8年間をレン・ハンと過ごせたことをぼくはとても感謝しているし、今もこころの中にあるたくさんの大切な思い出を彼と共有しました。
彼の仕事と人生におけるパートナーとして過ごしたこの数年、ぼくは彼のことや芸術家としての人生をシェアし続けたいと望んでいました。


でも、彼の法的相続人とぼくとのあいだの意見の違いと、開示できないいくつかの理由の結果、レン・ハンの遺した作品から今後発生する仕事はこれまでの彼の作品からは表現の面で逸脱したものになります。
よって、ぼくはレン・ハンの将来的な仕事のすべてからの撤退を発表する以外の方法はありません。


ぼくたちが互いに持っていたぼくたちの強情さや相違がたくさんの悪意を生むなんて考えもしませんでした。ぼくは愛する人を失いましたが、それは彼らも同じでした。


ぼくはただ、未来に平穏と静けさだけを望んでいます。
いちばん輝く光はすぐに消えてしまうから、彼はそうなることを望まないでしょう。彼はきっと深い夜のなかに生まれてきたかった。永遠に見上げていることができるようなその闇は、ゆっくりと無限へと広がり続けます。


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原文はこちらhttps://www.instagram.com/p/BT608s4Bp-u/









2017年5月8日月曜日

The answer is blowin' in the wind


十数年ぶりに、つまり大人になってからはじめて自分の育った町 荒浜の田植えの手伝いをした。



イナサ→南からのあたたかい風

コチ→東からの湿った風
    
ナライ→西からの乾いた風


おんちゃん(親戚のおじさん)が教えてくれたお米作りに大事な風の言葉、語源は何だろうと思って帰ってから調べたら、もとは大和言葉なんだそう。

大和言葉は、1500年くらい前にとなりの大陸から漢字や言葉がやって来る前から、それとは別に日本人が使ってきた言葉(らしい)。

今日(日付はもう昨日か)は西からの風がすごく強くて、遮る建物も丘もない仙台平野でみんな砂まみれになりながら作業してたんだけど、わたしの祖父を含めいったい何人の人がこんな田植えの季節を何百回過ごしたんだろうなあと思った。

震災後の復興事業のひとつ、沿岸沿いの道路のかさ上げ工事は順調にお進みになられているご様子でいらっしゃって、わたしの育った家があった場所は小高いコンクリートの下に埋まる雰囲気がじりじり出はじめてる。

色んなことが今までもこれからも常に変わり続けていて、それは当たり前のことなんだけど、
それでも1500年前と同じ言葉を使って、1500年前と同じように今でも人間がコントロールできない季節や気候の中で、同じように稲作をしてる。

言葉は時間とか変遷とか有限とか血脈とかを軽く飛び越えてくるときがある。
言葉は全てを抱擁できないけど、たまにその事実を追い抜いて網羅してくる。

誰かや何かが何かしらのボーダーを越えるのを見たり感じたとき、とても幸せな気持ちを感じる。美しくて、ありがとうって思う。
それこそ、うまく言葉にできないんだけど。

じんわりした幸福感がいちばんあったかいおふとんだな。
ベッドの中です。


2017年4月24日月曜日

気持ちいいことしかやらなくていい


アースデイ東北、終わりました。
コンテンポラリーダンサーのクマガイミホさんとご一緒しました。
見てくれたみなさん、ありがとうございました。

人間をやるのははじめてなので、失敗してもまあ人間やるのはじめてだしな〜と思う(ようにしてる)んだけど、何せ肉体を得るのもはじめてなので自分の身体のこと、何をどう動かせばどうなるのかとか、お腹がすいたってみんな言うけどどの感覚のことを言ってるんだろう?とかそういうレベルにいます。本当に何がなんだか全然わからないことだらけです。
去年ランニングをはじめて、うまれてはじめて5キロを走って、ようやく自分の身体との対話がはじまったような感覚。

しかしこのあいだも、あったかい!春がきた!ウオー!!となってからだを動かした途端に腰と肩をやり満身創痍になり思考停止に陥りそうになったときにやって来たのが今回のミホさんとアースデイの機会でした。

ミホさんに聞いてみた。わたしはからだとうまく付き合えない。そしたらこう返ってきた。



「準備運動ってあるでしょ、運動をするためにする運動。あれはどうしてやるかっていうと、普段の生活で動かさない、本来使わない動きにからだが耐えられるように準備するの。でもね、わたし準備運動ってほとんどしない。からだが気持ちいいと思うことしかしないんだよね。それでいいんだよ」



目玉が取れるんじゃ無いかと思うくらい、目から鱗。はあ。今こうやって書いてても驚き続けてる。

わたしはからだを動かしてると、どうしてこうなるの?どうしてできないの??ばかり考えてしまうけど、違うんだな。
根本的に。ミホさんは丁寧に、丁寧に、向き合ってる。
自分のからだと対話することを、大切な誰かと向き合うみたいにしてるんだな、とミホさんのダンスを見てても思う。
コンテンポラリーダンスって、???となることもあるのだけど、ミホさんはなんというか、ちゃんと分かる。何をしてるのか。何を捉えてからだで表現してるのか。

今回見てない方にも、別の機会に是非ミホさんのダンスを見てほしい。
仙台を中心に踊ってらっしゃる方です。是非。



アースデイ、ということだったのでライブ前の数日はyoutubeにあがってた「地球のまわる音」を聴いていました。


アースデイ東北主催の石川さん、声をかけてくれたゆうくん、キャンドルナイトのライブを美しく照らしてくれたLamp of Hopeさん、そしてボランティアのみなさん、ありがとうございました。
わくわくできて、うれしかったな。

2017年3月13日月曜日

あたらしい日々と爪あとと



2017年のHOPE for projectが終わりました。


これは色んなところで何回も言ってるけど、HOPE for projectは特別なイベント。
1年間、右往左往しながら音楽をつくって、また3月11日がくる。
わたしのかえる場所。


高校生のときにライブハウスで知り合ったバンドマンの男の子が、先週のARABAKIのライブオーディションにわざわざ来てくれたんだけどその時に

「音楽を辞める大きなタイミングっていうものがあって、例えば高校でバンドやってたやつは高校卒業のタイミングで、大学で音楽がんばってたやつも就職のタイミングで大体辞めていく、でもなみちゃんは大学の終わりから卒業にかけて音楽をやりはじめたような印象があって、すごく不思議だなと思ってた」

って言われた。
あーたしかになあ、それはたしかに不思議だねえ、とか人ごとみたいに思いながら、ほんとはぜんぶ合点がいってる。

もっとパーソナルなことを表現してもよくて、それは最も個なことが最も公になり得るからだよ、とアイゴンさんに言われた。
背負おうとせずに、もっと目の前にある音を楽しんでいいんだよ、とツネさんとCurly Giraffeさんに言われた。

言われてはじめて、わたしはそもそも自分が楽しむためだけに音楽をつくるということができないんだなということに気付く。
もてあました青春の時間を楽しく消費するための道具にわたしは音楽を選べなかった。
音楽は希求だった。 魔法だった。
わたしが音楽やピアノで将来生活することは絶対に無いから、と中学生くらいのとき母に言ったのをよく覚えてるし、できれば一生選びたくなかったのかもしれない。
ずっとずっと手の届かないきらめきであってほしかった。

でも、つくってる。

2011年3月11日に魔法がとけてしまったから。

その魔法を追いかけてる。 音楽が魔法じゃないって、もう知ってても。

何度も何度も試してみる。たぶん死ぬまで続ける。正直言って正気の沙汰ではない。何よりやってる本人がしんどいし辛い。

でも、GAGLEのHUNGERさんに言われた。
「なみちゃん、もっとできるよ」って。

これは秘密だけど、わたしも本当はずっとそう思ってる。
地震で倒れた衣装ケースとそこからぐちゃぐちゃに散らばった洋服を飛び越えて、ピアノの鍵盤の前に座ったときからずっと。

それを信じてくれる人がいること、受け取ってくれる人がいること、去ってもなお存在を強く感じれること。
そしてわたしが叶えたい魔法の、音楽の、還る場所があのまちの、あの海であること。


あとはもう音楽関係なく震災で家族を亡くした身として。
飛び立っていく風船をみるたびに、さよならって思う。
さよならって、まだこれから何度もおもう。この季節が来る度に。
お葬式やなんかはもちろんとても大事でフォーマルで完成された儀式だけど、ある日突然まちが消え、くらしが消え、ひとが消えたという事実はお葬式やそれに附随する各々の宗教が提供してくれるサービスでは回収しきれない。少なくともわたしはそうだった。
だからわたしたちは風船を飛ばすし、塔を建てるし、海に花をたむける。
わたしが音楽をつくってきたのもそういう行為のなかのひとつなんだきっと。
(あれ、音楽関係なくって言ったのに結局音楽にもどってきてしまう)


わたしにとってのHOPE for project、3月11日という日。
とにかく続けます。また新しい1年がはじまった。やっと。
東日本大震災から6年が経ちました。






【HOPE for project】
https://www.facebook.com/HopeForProject/

毎年3月11日に、被災地である宮城県仙台市荒浜地区の震災遺構・旧荒浜小学校で風船を飛ばしたり音楽ライブを開催しているイベントです。
ボランティアや活動を応援してくれるみなさんの協賛で成り立ってます、よかったらリンク覗いてみてくださいね。


2017年3月4日土曜日

アラバキ、だめだった。
最後の8組まで残れてよかったとか良い経験になったとかそんなこと今は全然言えない、応援してくれたみなさんごめんなさい。かなしい。

2017年2月18日土曜日

ぴかぴかの夜に













https://eggs.mu/project/arabaki_rock_fest17_live

アラバキHASEKURAオーディション、一次投票審査を通りました。

3月4日の公開ライブ審査に進めます。来てください。いいものを見せたい。

これを書いてるのは2月15日の21時前で、1時間半前に一時通過のメールが来た。

400組中の、8組。確率にすると2%だって。ほんと???

わたしは蛇口をひねって水が出るように音楽がつくれるような天才じゃない。

自分に期待をしたこともほとんどない。

ただただ音楽が好きなだけ、ただそれだけ。

だからみんなすごい。本当に尊敬する。

投票や応援してくれたり情報をシェアしてくれたみんながすごい。

と、わりと真顔で本気で思ってます。

運んでくれて、ほんとにほんとにありがとう。

3月4日、仙台Rensaでのライブ審査に出演します。

みなさんが導いてくれた舞台です。



■ライブ審査詳細■
公演:ARABAKI ROCK FEST. 17 未来サミット -HASEKURA Revolution-
日時:3月4日(土) 開場12:00/開演12:30
会場:仙台Rensa
料金:入場無料(要入場券)  ※2ドリンク制¥1,000(当日)

※入場無料ですが、事前予約が必要となります。
 チケット詳細は下記よりご確認ください。
 https://arabaki.com/info/miraisummit/
※必ず開演時間までにお越し下さい。
 開演時間を過ぎた場合、チケットは無効となります。

<特別審査員>
荒吐親善大使:堂島孝平/上中丈弥(fromTHEイナズマ戦隊)





うそみたいだけど、うそじゃないんだなあ…

うそみたいな現実を重ねていつかのうそを全部現実にして死ぬときに神的ななにかにぜんぶうそだったんだよって言ってもらおう、それでぜんぶおっけーだから目の前にあるものをあとは全力で愛します

2017年2月14日火曜日

SWAY SWAY SWAY


去年の末くらいから音楽がつくれなくなった。

ありがたいことにここ3年くらいCM音楽やBGMの仕事でお金をもらうようになっていて、そうしてるうちに自分がどんな音をつくっていたのかわからなくなった。
もちろん仕事そのもの自体には何の罪もないし、わたしを信頼して仕事をくれた人たちには有難さしか感じてない。
でも体だけ正直で、わたしは自分でおもってるほど器用ではなかったみたいで、キーボードのある部屋に行くのもしんどくなってた。
こんなに音楽をつくらない時間が続くのは20歳以来はじめてで、心がどんどんひとりの場所に潜っていってるのを感じた。すごく焦った。

そういうときに、ハードディスクの奥から日記が出てきた。
自分自身やあらゆるものを粗雑に扱っていた時期、とても傷つけてしまった人と1年くらい前に話したときに書いたものだった。

そこには

「本当に本当に申し訳なかったと思ってる、というようなことを伝えたら『そんな謝罪はおまえの自己満足だ、これからのおまえの生き方で示せ』と言われた」

と書いてあった。

傷つけたひとがたくさんいて、誰かを試したり傷つけなければ自分の痛みがわからなかった頃があった。

2013年、「ARAHAMA callings」というアルバムをつくった。震災で失われたことたちを、音楽のなかで永遠にしたかった。人からどう思われるかとかそういうことを意識せずに何かに没頭したのはうまれてはじめてだった。

つくり終わってみたら、色んなひとに「ありがとう」と言われた。よくわからなかった。

よくわからなかったけど、鼻のおくがツンとして、ずっと泣いてた。


わたしのこころにわたしの知らない場所があって、その場所をずっとつつかれているような気分で、そんなことが人生にあり得るということ自体をはじめてその時に知った。

ことを、今回アラバキのオーディションに応募して思い出しました。

同じ場所をつつかれてるんだと思う。

それがこころのどこなのかはまだ分からないし、たぶん言葉にできないので、いつか音楽にしようと思った。

生きることは螺旋階段をのぼってるのと同じで、様々なレイヤーで同じ景色を何度も見るけど、それは同じ景色じゃない。上から見ると円だけど、横から見ると上に伸びてる。

気付けないけど、少しずつ、進んでる。

投票〆切まであと1時間ちょっとだけど、もう一度投票サイトのリンク貼ります。

https://eggs.mu/project/arabaki_rock_fest17_2nd/artist/OM_73

今日までの一週間、タイムラインやフィードに何度も同じリンクを貼ってるのでげっそりさせてしまった方もいると思うけど、でもものぐさで臆病故に何かにしがみつくのが苦手なわたしが必死になれたのは応援やシェアをしてくれた、メッセージをくれた、そして傍で励まして協力してくれたみなさんのおかげです。
こんなに支えてもらえるなんて思ってなかった。本当にありがとうございます。




自分が人に聴いてもらえる音楽をつくって、そしたら荒浜に東北に興味を持ってもらえるだろうかと思った夏があって、それが音楽をつくる底にはいつも沈殿していて、ARABAKIに出たい!だけじゃここまでできなかった。

応えたいし、かえしたいな。何年かかるかわからないけど。







本当に珍しく必死になっていて、最後の一押し!と思ってごく親しい友達にLINE送ったら、全員から「もう投票したよ」って返信がくる。

10代のころ。
荒浜にあった実家の自分の部屋の東の出窓に腰掛けて、煙草を背伸びして吸いながら、音楽を聴いて、朝を待ってた頃のことを覚えてる。
むかし、わたしは音楽とたったふたりきりだった。
まだ全然覚えてる。
いつかあの子にも届けばいい。