2018年3月22日木曜日

Good Morning Kids



いつもより文字を大きめに設定してあります。
なぜかというと、3月22日に放送されるNHKさんの朝の番組の映像をみて、わたしのことをネットで検索したご年配の方が、万が一この記事にたどり着く可能性があるかもしれないなと思ったからです。

超、とか、マジ、とか言ったり、文章を書くのに夢中になって句読点を忘れる癖も、注意しようと思うので、読んでもらえたらうれしいです。




佐藤那美といいます。音楽をつくっています。3歳から19歳まで仙台市の荒浜という場所に住んでいました。
CM音楽とか、映像に音楽をつけたりいろいろやってますが、毎年3月11日に荒浜で催されるHOPE FOR projectというイベントでライブをしています。

HOPE FOR projectは今年で5回目で、風船をとばして、ミュージシャンが音楽を演奏するイベントです。
たったそれだけといえばそれだけだけど、それ以上の意味を孕んでいると思っています。とても大事に思っているイベントです。
このイベントを主催している、高山智行という男がいます。震災後すぐの頃、行方が分からなくなっていた祖父を探していたわたしは、SNSで避難所の安否確認をしていた高山さんとTwitterで知り合いました。当時のわたしは平和ボケした美大生だったし、高山さんは(たしか)仕事の傍らイベントをいくつか主催していたようなひとでした。

あれから7年。わたしはなぜか音楽家になっていて、高山さんは大きなイベントの運営者として、今年も一緒に3月11日の荒浜に居ました。
HOPE FOR projectは、毎年たくさんの壁を乗り越えて運営されているイベントです。
今年は荒浜小学校の開催は無理かもしれない、みたいなことが幾度となくあって、それでも荒浜の地で踏ん張り続けている彼を、その意味を、そして3月11日のHOPE FOR projectを、わたしはとても大事な宝物のように思っています。





さて、話は変わります。
HOPE FOR projectのライブでもこの話をしたし、NHKの番組でももしかして触れてもらえたかもしれませんが、現時点でわかっていることを文字に残したいので、ここに書きます。

わたしの祖父は佐藤菊雄という男です。2011年3月11日、亡くなりました。

生前の祖父とはあまり混みいった話をした記憶がありません。
祖父は本家(南区)に住んでいて、わたしは次男の娘で、分家という形になるのかな?別の家(新町二丁目)に住んでいたこともありますが、正直に言うと祖父の東北弁の訛りがキツすぎて、彼が何を喋っているのかほとんど理解していませんでした。
でも、わたし含めた孫たちに対して、それはもう優しいひとでした。それだけは確かに。

去年、地下鉄荒井駅併設の、3.11メモリアル交流館という震災関連の施設の企画展示に参加しました。仙台市の沿岸沿いの地域を歩き、聞き取りをしたり、地域の録音をして、そこからつくった音楽が展示の一部になる、という企画でした。
たくさんの方にお世話になり、ご協力していただき、とても学びになったし、何より本当に楽しく制作をしました。

その活動の中で、祖父と同年代の方にお話を伺う機会が何度かありました。
あまりにも祖父の話題が出てくるのです。
しかも、悪い話がひとつも出てこない。
いずれ何かしらの形にまとめようと思うのでここでは詳細を省きますが、話だけを聞いていると、どこの聖人君子なんだろう……?本家の居間でステテコ姿で背中をかきながらソロバンはじいてた、ちょっと音痴で、お風呂嫌いな、あの人のお話ですよね……?というようなエピソードが本当にたくさん出てくる。

いちばんに驚いたのは、震災当日の祖父の話でした。
祖父は地震のあと、荒浜小学校に一度避難して、そのあとなぜか小学校の屋上からまた地上に降りていき、そのタイミングで津波にのまれ亡くなっています。
わたしの父兄弟曰く、生前の祖父は「津波なんか来るわけがない」と言っていたそうです。その考えがもとで亡くなったのだろう、とわたし含め親族は皆、思っていました。

話は違いました。
地震で避難してきた地域の方たちを見た祖父は、こんなに人が集まったのでは向こう数日の食料が足りないだろうと、倉庫に食料を取りに、荒浜小学校の屋上からまた戻って行ったそうでした。

もちろん、人から聞いたことなので、本当のところはもう永遠に分かりません。
もしかしたら本当に、津波なんか来ないよと思って、お茶を飲みに家に戻ったのかもしれない。
でも、祖父を最後に見たひとの1人は、そう言うのです。
(当日の祖父の動きを知ってる方が他にもいらっしゃいましたら是非ご連絡頂けると幸いです、お話を聞かせてください)





またまた話は変わります。3年ほど前の夏のことです。
当時、わたしはものすごくお金がありませんでした(いろいろ理由はあるのですが割愛します)。
心を豊かにする知恵があれば日々は幸福に暮らせることを知っているので、お金がない、という言葉を口にしたり文字にしたりするのが本当は本当に嫌いなので、いつもはあまり口にしないようにしています。でも事実としてそのときわたしにはお金がなかったのです。

その日、わたしは仙台駅の西口改札の自動券売機の前で皮の財布を拾いました。
一万円札が束で入っていました。

激烈に動揺しました。
わたしはそもそも善い人間ではないし、頭の良い人間でもないです。
10代のころのパワーは「この世界はなんて酷い所なんだろう」と思うことに費やしていたし(まあ普遍的なことではある)、それ故のここには書けない思い出(あまり普遍的とはいえない)もたくさんあります。
自分が拾ったお金でできるたくさんのこと、そのお金で買えるたくさんのものが頭をよぎっては打ち消して、結果的にわたしはその財布を改札の駅員さんに手渡しました。

そのあと、駐輪所にとめた自転車をとりにいくために南側に向かって歩いていると、パルコの中華屋さんの入り口あたりに数名の人がたむろしています。
すれ違うときに耳に入った言葉は関西弁と英語で、どうやら道に迷っているようでした。
自転車をピックして、来た道を戻るときにわたしは彼らに声をかけました。
スマホの画面に表示されていた地図の場所をわたしは知っていたので、関西弁をしゃべる日本人に場所を教えました。
彼はわたしにこう言いました。

「いやあ助かりました、ありがとう、仙台は良いところですね」

そのとき、ガツンと頭を何かに殴られたような心地がしました。ものすごい衝撃でした。
でもどうしてそんな心地がしたのかは、すぐには分かりませんでした。
乗って帰るはずだった自転車を、押しながらとぼとぼ歩いて、わたしはその理由を考えていました。
トラストシティの前の交差点まで来たところで、突然それは言語になって自分に落ちてきました。

それは

「世界は他の誰かに良いものにしてもらうのではなく、自分で良いものにしようとするから良いものになるのだ」

という、ごく当たり前のことでした。

涙がとまらなくて、家の近所の公園のベンチでぐずぐずに泣きました。
悲しいとか、嬉しいとか、怒りとか愛とか、そういうものが自分の内側でぜんぶ混ざって、涙がとまりませんでした。
日が暮れた公園はまだ少し肌寒かったことを覚えています。





上で書いたHOPE FOR projectのこと、祖父のこと、財布のこと。
すべて今回のNHKさんの取材をうけたことに繋がります。

3月11日とその数日後にカメラをいれて取材させて欲しいと言われて、迷いました。
1年のなかで自分とってとても大事な日、時期だということもあります。
もっと個人的なことを言うと、ひとりの27歳の女性であったり、音楽をつくっていたりとか、被災者である前に、震災以前、ただただ音楽が好きなひとりの人間だったし、いまももちろんそうであること。

それでも取材を引き受けたのは、HOPE FOR projectのことをもっと多くの人に知ってほしいし、ひとりでも多くの人に荒浜に来て欲しいから。
祖父が津波なんて来ない、と言っていたように、いつか何もかも忘れ去られてしまうかもしれない可能性を、すこしでもその時間を延命できる一要因になれればいいなと思っています。
それは荒浜のためだけではなく、新浜、蒲生、三本塚、藤塚、閖上などの周辺集落、同じように津波で被災し人が住めなくなったり、住めてもいろいろな困難を乗り越え続けている場所。荒浜のように震災遺構が残されたわけではなく、それでもそこに根をはり地道な活動を続けている人が確かに居る場所のためにも。


(なんというか…これはとってもいい話〜!というわけではなく、単純にわたしは小心者で気力もあるほうではないので、自分ひとりのためだけに行動をおこすとか、そういうことができないということでもあります)







そしてもうひとつ、「この世界は自分が美しくするのだ」ということを、祖父がとっくに気付いていたことに、気付いてしまったことが大きくあります。

わたしは祖父にはなれません。
家も建てられないし、米もつくれない、畑もつくれない、私財投げ打って会社もつくれません。あんなに優しく、丁寧に人に関わっていくことができるひとは、今生どころか来世でもなれるかちょっと自信がないです。

でも、祖父よりちょっとだけ音楽の素養はあるようです。ちょっとだけね。
今年の秋、オーストラリアのエナジードリンクの会社、レッドブルさんのスポンサードで、ドイツのベルリンに行けることになりました。授業をうけたり、世界中から集まってきた若い音楽家たちと音楽をつくったりします。

できることをやる、それに対してベストを尽くす。いつか、今よりももっと優しく知恵のある眼差しで、あの町を見れるように。祖父がいつでもそうだったみたいに。

取材を受けたのは、そういう意思でした。
3月11当日やその前後、取材にご協力いただけた皆様にこの場でお礼を言わせてください。
ありがとうございました。


あと、祖父のことを知ってる方いたらご連絡くださいと書きましたが、生前の祖父のかっこ悪い話もご存知の方がいたら教えてください。あんまりにもいい話しか聞かなかったので、このままだとわたしのなかの祖父が聖人か偶像か何かになってしまいそう。
去年の活動のなかで、わたしは祖父に出会いなおしていく感覚がありました。
『優しいわたしのおじいちゃん』ではなく、同じ人間としての佐藤菊雄に会って話をしてみたくて、それはまだ、不可能ではない気がしているのです。






2017年7月8日土曜日

さようなら、レン・ハン。



2月、写真家のレンハンが急逝。まだ29歳でした。
http://www.newsweekjapan.jp/sakamaki/2017/02/post-30.php

3ヶ月後、公私ともに彼のパートナーだったHuang Jiaqiが自身のinstagramアカウントに”Goodbye,Ren Hang”と題した英字の文章をポスト。
https://www.instagram.com/p/BT608s4Bp-u/


わたしは英語がほぼできない。
つまりほぼ読めない。
読めないけど、ぽろぽろとわかる単語を拾って読むと、ああこれはちゃんと読まなきゃいけないやつだと思い、英語が堪能な友人の力を借りつつノートに夜な夜な写し取り、少しずつ一ヶ月かけて翻訳しました。
翻訳したところでHuang Jiaqiのこのポストの日本語訳がメディア上に存在していないらしいことがわかったので、読みたい人に届けばいいなと思いシェアします。
繰り返し言いますがわたしは翻訳の専門家ではないので間違ってる箇所は全然あると思います。(ご指摘は歓迎します)
なぜできないところを、しかもまあまあ長い文章を訳したんだろうと考えると、自分なりの弔いの作業だったのかなと思いました。

いつも隣にある死の気配を繊細に感じ抗いながら、ボーダーを越えようとチャレンジし続け、尚且つPOPであろうとする彼の姿勢とその作品に、ものをつくる人間としての勇気をもらったことを覚えています。
あらためてご冥福をお祈りします。
どうか彼がいま安らかな場所にいますように。

以下訳文です。





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“Goodbye, Ren Hang.”


8年前、ぼくはまだ17歳の高校生だった。
当時ぼくたちはそれぞれ違う街に住んでいて、電話かインターネットで話すことしかできなかった。でも、たとえ会うことが
ほとんど不可能なのだとしてもぼくたちはぼくたちの愛が熱を帯びていることを知っていたし、ずっと一緒に生きていくのだという夢に必死でしがみついていた。
きみと暮らすために、家出をして大学の入学試験を放棄し北京にやってきたとき、それはぼくの人生でいちばん重大な決断だった。


当時、北京はまだ混み合ってなくて車も人も今ほどなかった。けれどぼくたちは情熱的な生活をすることだけはできた。5~6人の他人と同じ家で暮らし、一日一日食べていくのに必死で、ぼくたちはよく5元(注釈:日本円で約80円)のキュウリチャーハン弁当で我慢しなければいけなかった。
その年、きみは22歳でまだ人々のたくさんの興味を引くことはなく、きみの頭の中には彼らが貼ってくるレッテルもなかったけれど、きみの仕事は確実に成熟しはじめていた。きみに最も近しい人間として、ぼくはきみの作品のいちばん最初のオーディエンスだった。ぼくたちは誰かに対して何かをする義務なんてなかったけど、お互いのためにお互いのそばにいたんだ。


ゆっくりと、きみの作品は評価されはじめていた。
人々はきみの作品の価値をだんだんと認めはじめていた、ぼくがそうだったように。
そして注目が集まるにつれてぼくたちの暮らしは楽になっていった。
ぼくはきみの成功が本当に嬉しかった。でもそれと同時に気付いたのは、美術的な良し悪しを判断される世界に身を置き、それらの評価がぼくたちの生活に影響を及ぼしはじめていたことだった。


批評や評価をされるその度に、その時々に、その全てがきみを悩ませた。
ぼくはきみのそれがうつ病と呼ばれるものだと知らなかった。
はじめてきみが泣きながら「この部屋に火をつけてしまいたい」とぼくに伝えてきたとき、ぼくたちは一緒に死ぬことだってできた。
でもぼくが知っていた全ては、このふたつの手できみを抱きしめ、引き寄せ、きみのこころが鎮まるのを待つことだった。
ぼくは人生におけるはじめての恋人という大切な関係を守りたかったし、ぼくたちは強くなる必要があって、そうすれば全部が大丈夫になると思っていた。
でも、ゆっくりと、こういう出来事は増えはじめていた。
そのとき、ぼくはきみがうつ病を患っていることに気付いた。
たまに外でも(それは道ばただったり地下鉄だったりしたけど)きみは自分自身のコントロールができなくなって、何かしらの極端な行動に走った。
毎回、ぼくはきみを止めるためのベストを尽くし、きみを落ちつかせようとした。それはきみが、ぼくや他の誰かを傷つたくないと望んでいることを心から分かっていたから。
あなたの心の中には愛があると同時に厄介な子供も棲んでいて、その子供は誰かに世話をしてもらうことを必要としていた。その子は人生を愛していたけど、愛する技術に欠けていたのだった。


何年かが過ぎ、ぼくたちは共に成長していた。自分の人生に関するいくつかのことを諦めたけど、きみの制作の手伝い、そして自分の人生をより良いものにするために、ぼくはきみのそばにいることを選んだ。
ぼくは、決してぼくのことを見捨てることのないきみのまなざしを求めていた。
なぜなら、どんなに辛くあがいても、どんなに苦しく耐えられない状況でも、一緒にいさえすればそこにはまだ希望と光があることをぼくは知っていたから。
そして、きみがぼくに心を開いてくれたとても多くの時間のなかで、きみも同じ事に気付きはじめていた。
もしも、ぼくたちの人生と愛を共にやり直すことができたなら、きみを救う方法をぼくたちは学ぶ必要がある。
少しずつ、きみの病は激しさを失いつつあった。
最後の2年間はそれまでよりもずっと良い思い出がたくさんあるけど、それでも、きみは胸の中に捉えどころのない気持ちをまだ感じていたのだろうね。


ぼくたちの信頼ときみの過酷な制作は、様々な困難に直面する勇気をぼくにくれたように思う。そのことを考えるたびに、ぼくは心にあたたかさを感じるよ。
17歳のぼくにとっていちばん大切だったものはもう永遠にかわらない----それはきみのことを、ぼくたちの愛を、守ること。


それでもあの日はやってきてしまった。
ぼくが眼科に行っていたなんでもないようなあの日、きみは最後の決断をしていた。
正直に言うとぼくはあの日のことを何一つも思い出したくないんだけど、それでもあの日以来強制的に想起させられる。
きみのうつ病は瞬間的に毎秒きみを拷問のように苦しめていたけど、その闇がついに訪れてしまったとき、ぼくはきみを守る最後のチャンスを失ってしまった。


ぼくには、きみを敬い、受け入れることしかできなかった。


なぜなら、もはやぼくにはその選択肢しか残されていなかったから。


うつ病は危険な病気ではなく、とても一般的な病だ。うつ病の人々はうわべだけの陽気さや活発さの後ろに隠れることができる。それでもまだ寝ることや食べることと同じように定期的に自殺についてしつこく考え続けているのだ。時には、あなたの持ってる全ての愛を示してもそれは彼らにとってまだ十分ではない。これはお願いだ、誰か彼らの病をできるだけはやく察し、そばに行き、救いを見つけてほしい。医師や精神病学者のもとへ行き診てもらうだけではなく、飲むべき薬についてしっかり知ってほしい。そしてもしあなたがこれらの問題を家族や友人に知ってもらうなら、一緒に頼んでほしいことがある。それは彼らが必要とする支援をうけられるように手伝ってほしい、ということ。


きみは最期、ぼくたちの共通の友達に、ぼくを大事にするように、それに最善を尽くすようにと頼み、任せた。
幸いにも、ぼくたちにはたくさんの友達がいて、彼らはぼくが求めるよりもずっと多くのサポートをしてくれたし、ぼくは彼らがぼくたちにしてくれた全てのことに本当に感謝している。
その誰しもにぼくを助ける義理があったことをぼくは知っていて、どんなにわずかな優しさでさえも、そのどれもが有り難かった。
遠くに住む多くの友人たちは、ぼくがどう折り合いをつけているかあえて聞いてこなかったし、あえて訪ねてくることもしなかったけど、ぼくは理解していた。
彼らはぼくを強く抱きしめ、彼らの人生から離れて行かせないようにし、最悪の結果によるぼくの人生においていちばん過酷な時期を寄り添ってくれた。
ぼくのかかりつけの精神科医は「あなたには生きようとする強さがある」とぼくに言う。それはたぶんその時のぼくにとって最も大きな慰めだった。
そう、ぼくのことはもうこれ以上心配しないで。


過ぎ去って行った日々の中で、ぼくたちが望んだことは二人ができる限り幸せに生きることだった。
「きみはぼくの帰る家で、ぼくはきみのものだよ」と、きみは言っていた。
8年の月日が過ぎて、今のぼくに帰る家は無い。
現在のこの環境で法律はぼくたちを守ってくれないし、ぼくはきみなしでこれから将来の問題に向き合わなければいけない。
ぼくは精神科医の助けを借りて、傷を癒すこと、受け入れることをようやくしはじめた。きっとそれはとても難しくて、すごくゆっくりだけど、ぼくがずっと頼り続けられるのはもう自分自身だけだから-----きみの死に向き合い、乗り越えよう。


17歳できみに出会ってから、ぼくは常に自分が成長しているように装ってきた。
だけど、すべてが終わったいま、ぼくは気が付いた。
ぼくたちはふたりのちいさな子供だったんだ。
ぼくはこれから先ずっと、ただ自分自身を育てていくよ。


さようなら、ぼくの恋人。


さようなら、レン・ハン。


——————

いくつかのことについて説明します。


ここ数日間でレン・ハンのweiboのアカウントのいちばん最新のポストにたくさんの友人が質問をくれました。
ぼくたちふたりを気にかけてくれたことに感謝します。


今現在、レン・ハンの生前の仕事は法的相続人である彼の肉親者の管理権限内にあります。2017年3月10日、レン・ハンの仕事に関する全ての声明を停止する手伝いを彼の法的相続人に行いました。
あのとき以来、レン・ハンのアカウントやwebサイトのことにおいてぼくは何も知らないし関与もしていません。
今後、レン・ハンのアカウントにおけるいかなるポストにもぼくが関わっていることはありません。


8年間をレン・ハンと過ごせたことをぼくはとても感謝しているし、今もこころの中にあるたくさんの大切な思い出を彼と共有しました。
彼の仕事と人生におけるパートナーとして過ごしたこの数年、ぼくは彼のことや芸術家としての人生をシェアし続けたいと望んでいました。


でも、彼の法的相続人とぼくとのあいだの意見の違いと、開示できないいくつかの理由の結果、レン・ハンの遺した作品から今後発生する仕事はこれまでの彼の作品からは表現の面で逸脱したものになります。
よって、ぼくはレン・ハンの将来的な仕事のすべてからの撤退を発表する以外の方法はありません。


ぼくたちが互いに持っていたぼくたちの強情さや相違がたくさんの悪意を生むなんて考えもしませんでした。ぼくは愛する人を失いましたが、それは彼らも同じでした。


ぼくはただ、未来に平穏と静けさだけを望んでいます。
いちばん輝く光はすぐに消えてしまうから、彼はそうなることを望まないでしょう。彼はきっと深い夜のなかに生まれてきたかった。永遠に見上げていることができるようなその闇は、ゆっくりと無限へと広がり続けます。


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原文はこちらhttps://www.instagram.com/p/BT608s4Bp-u/




















※7月11日 追記&本文訂正 「kuai」について

アップ時の訳文では

「ぼくたちはよくチャーハンとキュウリと5枚のkuai(注釈:中国の薄切りの肉や魚のことらしい)が入った弁当で我慢しなければいけなかった」
 

と表記しましたが
中国に留学経験がある方で本文を読んでくださった方から、訳文中の「kuai」の意味を教えていただくメールをいただきました。

"原文を読んだ私の理解だと
「5元(1元が16日本円だとして約80円という激安)の、
キュウリのチャーハン弁当」となると思われます。
"fried rice with a cucumber"は「キュウリのチャーハン」かな、と私は思います。
中国では、キュウリをよく炒め物に使ったり、加熱して食べるので。
「チャーハンの上に生のキュウリがのっている弁当」の可能性は、弁当にナマモノを使わない中国の食習慣からすると、考えづらいとおもいました。
"
 

とご説明いただき、これに習い本文を訂正しました。
"kuai" に関しては調べてもぼんやりとした情報しか出てこなかったので、とても
ありがたかったです。
メールをくださったIさん、ありがとうございました。
 




2017年5月8日月曜日

The answer is blowin' in the wind


十数年ぶりに、つまり大人になってからはじめて自分の育った町 荒浜の田植えの手伝いをした。



イナサ→南からのあたたかい風

コチ→東からの湿った風
    
ナライ→西からの乾いた風


おんちゃん(親戚のおじさん)が教えてくれたお米作りに大事な風の言葉、語源は何だろうと思って帰ってから調べたら、もとは大和言葉なんだそう。

大和言葉は、1500年くらい前にとなりの大陸から漢字や言葉がやって来る前から、それとは別に日本人が使ってきた言葉(らしい)。

今日(日付はもう昨日か)は西からの風がすごく強くて、遮る建物も丘もない仙台平野でみんな砂まみれになりながら作業してたんだけど、わたしの祖父を含めいったい何人の人がこんな田植えの季節を何百回過ごしたんだろうなあと思った。

震災後の復興事業のひとつ、沿岸沿いの道路のかさ上げ工事は順調にお進みになられているご様子でいらっしゃって、わたしの育った家があった場所は小高いコンクリートの下に埋まる雰囲気がじりじり出はじめてる。

色んなことが今までもこれからも常に変わり続けていて、それは当たり前のことなんだけど、
それでも1500年前と同じ言葉を使って、1500年前と同じように今でも人間がコントロールできない季節や気候の中で、同じように稲作をしてる。

言葉は時間とか変遷とか有限とか血脈とかを軽く飛び越えてくるときがある。
言葉は全てを抱擁できないけど、たまにその事実を追い抜いて網羅してくる。

誰かや何かが何かしらのボーダーを越えるのを見たり感じたとき、とても幸せな気持ちを感じる。美しくて、ありがとうって思う。
それこそ、うまく言葉にできないんだけど。

じんわりした幸福感がいちばんあったかいおふとんだな。
ベッドの中です。