2017年7月8日土曜日

さようなら、レン・ハン。



2月、写真家のレンハンが急逝。まだ29歳でした。
http://www.newsweekjapan.jp/sakamaki/2017/02/post-30.php

3ヶ月後、公私ともに彼のパートナーだったHuang Jiaqiが自身のinstagramアカウントに”Goodbye,Ren Hang”と題した英字の文章をポスト。
https://www.instagram.com/p/BT608s4Bp-u/


わたしは英語がほぼできない。つまりほぼ読めない。読めないけど、ぽろぽろとわかる単語を拾って読むとああこれはちゃんと読まなきゃいけないやつだと思い、イングリッシュスピーカーの友人の力を借りつつノートに夜な夜な写し取り、少しずつ一ヶ月かけて翻訳しました。
翻訳したところでHuang Jiaqiのこのポストの日本語訳がメディア上に存在していないっぽいことがわかったので、読みたい人に届けばいいなと思いシェアします。
繰り返し言いますがわたしは翻訳の専門家ではないので間違ってる箇所は全然あると思います。(ご指摘は歓迎します)
なぜできないところを、しかもまあまあ長い文章を訳したんだろうと考えると、自分なりの弔いの作業だったのかなと思いました。

いつも隣にある死の気配を繊細に感じ抗いながら、ボーダーを越えようとチャレンジし続け、尚且つPOPであろうとする彼の姿勢とその作品に、ものをつくる人間としての勇気をもらったことを覚えています。あらためてご冥福をお祈りします。どうか彼がいま安らかな場所にいますように。












※7月11日 追記&本文訂正 「kuai」について

アップ時の訳文では

「ぼくたちはよくチャーハンとキュウリと5枚のkuai(注釈:中国の薄切りの肉や魚のことらしい)が入った弁当で我慢しなければいけなかった」
 

と表記しましたが
中国に留学経験がある方で本文を読んでくださった方から、訳文中の「kuai」の意味を教えていただくメールをいただきました。

原文を読んだ私の理解だと
「5元(1元が16日本円だとして約80円という激安)の、
キュウリのチャーハン弁当」となると思われます。
"fried rice with a cucumber"は「キュウリのチャーハン」かな、と私は思います。
中国では、キュウリをよく炒め物に使ったり、加熱して食べるので。
「チャーハンの上に生のキュウリがのっている弁当」の可能性は、弁当にナマモノを使わない中国の食習慣からすると、考えづらいとおもいました。

 

とご説明いただき、これに習い本文を訂正しました。
「kuai」に関しては調べてもぼんやりとした情報しか出てこなかったのでめっちゃありがたかった。。
メールをくださったIさん、ありがとうございました。
 




以下訳文です。





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“Goodbye,Ren Hang.”


8年前、ぼくはまだ17歳の高校生だった。
当時ぼくたちはそれぞれ違う街に住んでいて、電話かインターネットで話すことしかできなかった。でも、たとえ会うことが
ほとんど不可能なのだとしてもぼくたちはぼくたちの愛が熱を帯びていることを知っていたし、ずっと一緒に生きていくのだという夢に必死でしがみついていた。
きみと暮らすために、家出をして大学の入学試験を放棄し北京にやってきたとき、それはぼくの人生でいちばん重大な決断だった。


当時、北京はまだ混み合ってなくて車も人も今ほどなかった。けれどぼくたちは情熱的な生活をすることだけはできた。5~6人の他人と同じ家で暮らし、一日一日食べていくのに必死で、ぼくたちはよく5元(注釈:日本円で約80円)のキュウリチャーハン弁当で我慢しなければいけなかった。
その年、きみは22歳でまだ人々のたくさんの興味を引くことはなく、きみの頭の中には彼らが貼ってくるレッテルもなかったけれど、きみの仕事は確実に成熟しはじめていた。きみに最も近しい人間として、ぼくはきみの作品のいちばん最初のオーディエンスだった。ぼくたちは誰かに対して何かをする義務なんてなかったけど、お互いのためにお互いのそばにいたんだ。


ゆっくりと、きみの作品は評価されはじめていた。
人々はきみの作品の価値をだんだんと認めはじめていた、ぼくがそうだったようにね。
そして注目が集まるにつれてぼくたちの暮らしは楽になっていった。
ぼくはきみの成功が本当に嬉しかった。でもそれと同時に気付いたのは、美術的な良し悪しを判断される世界に身を置き、それらの評価がぼくたちの生活に影響を及ぼしはじめていたことだった。


批評や評価をされるその度に、その時々に、その全てがきみを悩ませた。
ぼくはきみのそれがうつ病と呼ばれるものだと知らなかった。
はじめてきみが泣きながら「この部屋に火をつけてしまいたい」とぼくに伝えてきたとき、ぼくたちは一緒に死ぬことだってできた。
でもぼくが知っていた全ては、このふたつの手できみを抱きしめ、引き寄せ、きみのこころが鎮まるのを待つことだった。
ぼくは人生におけるはじめての恋人という大切な関係を守りたかったし、ぼくたちは強くなる必要があって、そうすれば全部が大丈夫になると思っていた。
でも、ゆっくりと、こういう出来事は増えはじめていた。
そのとき、ぼくはきみがうつ病を患っていることに気付いた。
たまに外でも(それは道ばただったり地下鉄だったりしたけど)きみは自分自身のコントロールができなくなって、何かしらの極端な行動に走った。
毎回、ぼくはきみを止めるためのベストを尽くし、きみを落ちつかせようとした。それはきみが、ぼくや他の誰かを傷つたくないと望んでいることを心から分かっていたから。
あなたの心の中には愛があると同時に厄介な子供も棲んでいて、その子供は誰かに世話をしてもらうことを必要としていた。その子は人生を愛していたけど、愛する技術に欠けていたのだった。


何年かが過ぎ、ぼくたちは共に成長していた。自分の人生に関するいくつかのことを諦めたけど、きみの制作の手伝い、そして自分の人生をより良いものにするために、ぼくはきみのそばにいることを選んだ。
ぼくは、決してぼくのことを見捨てることのないきみのまなざしを求めていた。
なぜなら、どんなに辛くあがいても、どんなに苦しく耐えられない状況でも、一緒にいさえすればそこにはまだ希望と光があることをぼくは知っていたから。
そして、きみがぼくに心を開いてくれたとても多くの時間のなかで、きみも同じ事に気付きはじめていた。
もしも、ぼくたちの人生と愛を共にやり直すことができたなら、きみを救う方法をぼくたちは学ぶ必要がある。
少しずつ、きみの病は激しさを失いつつあった。
最後の2年間はそれまでよりもずっと良い思い出がたくさんあるけど、それでも、きみは胸の中に捉えどころのない気持ちをまだ感じていたのだろうね。


ぼくたちの信頼ときみの過酷な制作は、様々な困難に直面する勇気をぼくにくれたように思う。そのことを考えるたびに、ぼくは心にあたたかさを感じるよ。
17歳のぼくにとっていちばん大切だったものはもう永遠にかわらない----それはきみのことを、ぼくたちの愛を、守ること。


それでもあの日はやってきてしまった。
ぼくが眼科に行っていたなんでもないようなあの日、きみは最後の決断をしていた。
正直に言うとぼくはあの日のことを何一つも思い出したくないんだけど、それでもあの日以来強制的に想起させられる。
きみのうつ病は瞬間的に毎秒きみを拷問のように苦しめていたけど、その闇がついに訪れてしまったとき、ぼくはきみを守る最後のチャンスを失ってしまった。


ぼくには、きみを敬い、受け入れることしかできなかった。


なぜなら、もはやぼくにはその選択肢しか残されていなかったから。


うつ病は危険な病気ではなく、とても一般的な病だ。うつ病の人々はうわべだけの陽気さや活発さの後ろに隠れることができる。それでもまだ寝ることや食べることと同じように定期的に自殺についてしつこく考え続けているのだ。時には、あなたの持ってる全ての愛を示してもそれは彼らにとってまだ十分ではない。これはお願いだ、誰か彼らの病をできるだけはやく察し、そばに行き、救いを見つけてほしい。医師や精神病学者のもとへ行き診てもらうだけではなく、飲むべき薬についてしっかり知ってほしい。そしてもしあなたがこれらの問題を家族や友人に知ってもらうなら、一緒に頼んでほしいことがある。それは彼らが必要とする支援をうけられるように手伝ってほしい、ということ。


きみは最期、ぼくたちの共通の友達に、ぼくを大事にするように、それに最善を尽くすようにと頼み、任せた。
幸いにも、ぼくたちにはたくさんの友達がいて、彼らはぼくが求めるよりもずっと多くのサポートをしてくれたし、ぼくは彼らがぼくたちにしてくれた全てのことに本当に感謝している。
その誰しもにぼくを助ける義理があったことをぼくは知っていて、どんなにわずかな優しさでさえも、そのどれもが有り難かった。
遠くに住む多くの友人たちは、ぼくがどう折り合いをつけているかあえて聞いてこなかったし、あえて訪ねてくることもしなかったけど、ぼくは理解していた。
彼らはぼくを強く抱きしめ、彼らの人生から離れて行かせないようにし、最悪の結果によるぼくの人生においていちばん過酷な時期を寄り添ってくれた。
ぼくのかかりつけの精神科医は「あなたには生きようとする強さがある」とぼくに言う。それはたぶんその時のぼくにとって最も大きな慰めだった。
そう、ぼくのことはもうこれ以上心配しないで。


過ぎ去って行った日々の中で、ぼくたちが望んだことは二人ができる限り幸せに生きることだった。
「きみはぼくの帰る家で、ぼくはきみのものだよ」と、きみは言っていた。
8年の月日が過ぎて、今のぼくに帰る家は無い。
現在のこの環境で法律はぼくたちを守ってくれないし、ぼくはきみなしでこれから将来の問題に向き合わなければいけない。
ぼくは精神科医の助けを借りて、傷を癒すこと、受け入れることをようやくしはじめた。きっとそれはとても難しくて、すごくゆっくりだけど、ぼくがずっと頼り続けられるのはもう自分自身だけだから-----きみの死に向き合い、乗り越えよう。


17歳できみに出会ってから、ぼくは常に自分が成長しているように装ってきた。
だけど、すべてが終わったいま、ぼくは気が付いた。
ぼくたちはふたりのちいさな子供だったんだ。
ぼくはこれから先ずっと、ただ自分自身を育てていくよ。


さようなら、ぼくの恋人。


さようなら、レン・ハン。


——————
いくつかのことについて説明します。


ここ数日間でレン・ハンのweiboのアカウントのいちばん最新のポストにたくさんの友人が質問をくれました。
ぼくたちふたりを気にかけてくれたことに感謝します。


今現在、レン・ハンの生前の仕事は法的相続人である彼の肉親者の管理権限内にあります。2017年3月10日、レン・ハンの仕事に関する全ての声明を停止する手伝いを彼の法的相続人に行いました。
あのとき以来、レン・ハンのアカウントやwebサイトのことにおいてぼくは何も知らないし関与もしていません。
今後、レン・ハンのアカウントにおけるいかなるポストにもぼくが関わっていることはありません。


8年間をレン・ハンと過ごせたことをぼくはとても感謝しているし、今もこころの中にあるたくさんの大切な思い出を彼と共有しました。
彼の仕事と人生におけるパートナーとして過ごしたこの数年、ぼくは彼のことや芸術家としての人生をシェアし続けたいと望んでいました。


でも、彼の法的相続人とぼくとのあいだの意見の違いと、開示できないいくつかの理由の結果、レン・ハンの遺した作品から今後発生する仕事はこれまでの彼の作品からは表現の面で逸脱したものになります。
よって、ぼくはレン・ハンの将来的な仕事のすべてからの撤退を発表する以外の方法はありません。


ぼくたちが互いに持っていたぼくたちの強情さや相違がたくさんの悪意を生むなんて考えもしませんでした。ぼくは愛する人を失いましたが、それは彼らも同じでした。


ぼくはただ、未来に平穏と静けさだけを望んでいます。
いちばん輝く光はすぐに消えてしまうから、彼はそうなることを望まないでしょう。彼はきっと深い夜のなかに生まれてきたかった。永遠に見上げていることができるようなその闇は、ゆっくりと無限へと広がり続けます。


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原文はこちらhttps://www.instagram.com/p/BT608s4Bp-u/